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逃亡日誌

毒家庭からいきなり逃げ出しブラック企業も退職して人生目途が立たないわたしの逃走日記。

「なぜなに」が「攻撃」になってしまう理由

計算式の順番が違うから、答えがあっているのに×にされた、という話が話題らしい。

また、テレビでそういったこと対して、「自信がない人ほど教えた手順にこだわる」という意見を、偉い学者の先生がおっしゃったそうだ。

 

で、その関連で、

「教える側は何を聞かれても答えられるまで知っていなければ教える立場になんて立ってはいけない」という意見を目にして、ああ、なるほど、と思った。

たぶん、そういう思い込みが教える立場の人の中に(自覚している、していないに関わらず)存在し、教える立場の人は聞かれることに追い詰められているのだろう。

「教える立場」にいる者に「わからない」ことなど許されない、と。

 

それが、「わからないことを聞くな」という怒りになるのだ。

だが、すべてを把握することなど不可能だ。

何故なら刻一刻とあらゆる物事が変化している。あるいは、変化しないかのように見える法則も、数式も、いつかは覆されることだってあるかもしれない。

地球が平らではないと明かされたときのように。

「すべてをわかっている」と断言できる時、それは、あらゆる未来を無視し、「自分がわかることだけがこの世のすべてだ」と定義してしまった時だけだ。

 

それでいいのだ。

 

それなのに、「わからない」ことは許されないということが、「教える立場」の人を追い詰める。

それでも、「教える立場」の人がその分野の専門家であり、「教わる立場」の人があまり好奇心を持たない場合、「わからない」ことを聞かれることは、ほとんどないことと言えるだろう。

 

さて、そうではない場合。

「教える立場」の人がその分野の専門家ではなく

「教わる立場」の人があらゆることに深く広く好奇心を持つ

それでも「教える立場」の人は「教える立場」を与えられている。

 

その状況は、恒常的に当たり前に存在している。

 

「親」と「子」の関係だ。

 

子は親に、ありとあらゆることを問いかける。

「あれは何?」「どうしてこうなの?」

 

全てを答えられるだろうか。

 

それでも「教える立場」だから「わからない」ことは許されない。

そうして追い詰められた結果が、「なぜなに」が「攻撃」として作用してしまうことであり、疑問を持つことの禁止であり、自発的な独自の学習手段の否定・受動的でシステム的な学習手順への固執につながるのでは。

結果、子供は「学びとは自ら求めるものではない」という認識を持つ。

 

他の子供たちがどうであったかはわからない。

けれど、少なくとも、私は子供の頃「わからない」ことは「わからない」と答えてほしかったよ。