読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

逃亡日誌

毒家庭からいきなり逃げ出しブラック企業も退職して人生目途が立たないわたしの逃走日記。

定義の縄で縛られる

考えること

ポリコレ棒って言う単語をちょくちょく見かけるようになって、

なんだろうと思って調べてみた。

公的な表現に対して不適切だと訴えることの批判??のようなもの

なのかな??と思ったのだけれど、正直、言葉の意味等はあまり重要

ではないように思えた。

大事なのはその思想の中身であって、言葉の定義に捕らわれることで

思想の中身自体を縛り付けるような気がした。

 

フェミニスト、という言葉に対してもそうなのだけれど

 

何かを分類して定義する言葉というものは

その属性に属するものを、細部を見ることなく全部まとめて縛り上げて

袋詰めにしたまま殴りつけることを可能にしてしまうような、そんな感覚がある。

 

100パーセント全て正しくなければ主張をしてはいけないのだろうか。

この部分は正しいと思うがこの部分は間違っていると思う。

だからこの部分は考えを改めてほしい、ではいけないのだろうか。

 

なんというか、ネット上でよく見る、何かの主張に対する批判、というものは、

 

雑 に感じる。

 

わたしも今まで、無自覚に雑に批判を抱いてしてしまったことがある。

批判というのは、楽しいのだ。己の正しさで相手を打ち付ける行為。

力は楽しい。数は力だ。周りに賛同者がいればいるほど、それは「認められた暴力」

になっていく。飲まれる。正義の元で、言葉の暴力に憑かれてしまう。

 

それは悪いことだと言ってしまうのは簡単だ。

だが、それを悪いことだと断じることも、また、「認められた暴力」を

生み出してしまうことになる。難しい。

 

「認められた暴力」がない世界は、きっと退屈だろう、と思う。

 

いやな気持になったときに、文句を言えないのは窮屈だろう、と思う。

相手を侮辱するうまい言い回しを考え付いたとき等は楽しい。

披露したくなるし、それで侮辱した相手を笑いたい。

 

それは醜い。

だが、だからこそ、美化をしてはいけないのだろう。

 

難しい。

 

「ポリコレ棒で殴る」という表現は、批判としてひどく 雑 に使われて

しまっている。

「アスペ」「在日」が蔑称として使われてしまっていることと、見た目に

大差がないようだ。

それは、相手の主張のここが駄目、という批判ではなく、○○だから駄目、と

相手の主張の中身を一行さらっと流し読みするだけで否定できてしまう便利

な言葉になってしまっている。ような印象がある。

 

ネット上を見れば頭の良い人が、言葉のきれいな人が、あれこれと上手に

まとめていて、そういうものを読むととても満ちる感覚になる。

 

あんな風に感じたことをまとめられれば良いのだけれど、上手くいかないな。

 

○○は悪い、と定義された瞬間に、「正義の名のもとに袋叩きにしても良い」

ということになってしまうのは、色々と問題なのではないかということ。

 

思ったことは書いていけたらいいなと思う。