逃亡日誌

毒家庭からいきなり逃げ出しブラック企業も退職して人生目途が立たないわたしの逃走日記。

「何で怒っているかわかる?」というのは、更に怒る為の質問

答えた内容が合っていなかった時、

答えられなかった時、

 

「わかってないくせに謝れば済むと思ってんじゃねぇよ!!」

 

と更に怒る。

 

が、答えた内容が合っていた時、

 

「わかってるんなら何でそんなことしたんだよ!!!」

 

と、更に怒る。

地獄だ。

「障がい者だからって一方的に配慮を求めるな」

多数派こそ一方的に配慮を求めている状況だと思いますよ。

「普通」の名の元に、当然のように従わせようとする。

それは「普通」に配慮しろ、と一方的に求めていることに他ならないと思います。通常の環境が非障がい者優先なので、その中で生活することは、非障がい者優先に他ならないです。

別に逆転させろ、とか、何でもかんでも都合を通せ、と言っているわけではないんです。通常が非障がい者優先なので、多少の配慮をして貰って初めて平等なんだと思います。

例えば、照明のある店なんて、「目が見える人」に配慮されたものであり、目が見えない人が世の中の大多数であれば、少数派の為の配慮でしかなくなるんです。

 

配慮が当然とか、そういうことが言いたいわけじゃない。

ただただ、配慮がないと死ぬ。いや、わたしが死んでも健常者の皆さんは何も困らないから良いのかもしれないけれど、ただ、死体の処理や遺物の処理は面倒臭いから迷惑なのだろうな。ごめんなさい。

誰よりも自分を信用できない。

信頼できる相手に自分の気持ちを伝えられるようになると良い、という話。自分が信頼出来ないので、相手を押しつぶしそうでこわい。どうすればいい。

助けを求めることが難しい障害

発達障害でツイート検索をしていたら、「ただ漠然と助けて欲しい、というスタンスではなく、何が出来て何が出来ないのかを明示すること、助けを求めるためにはコミュニケーションが大事」というツイート(に、読んでしまったのは被害妄想によるものかもしれないが、私はそう受け取ってしまった為、元ツイートの特定を避ける意図もありそのまま記載。)コミュニケーションに問題のある障害って本当にどうしようもないな、と、思った。

 

とても、そう、とてもとても困っていて苦しいのに、何がどう困っていて、どう助けてもらえば良いのかがわからない。助けを求める時にはそれを明確にしておくことが求められる。「どうしたいの?」と聞かれる。

 

そもそもそのことがわかっていれば、もう少し自分で何とかしようもあるんだ。助かりようがない。

 

助けを求める事すらできない。

それでもせめて助けを求めなければ。

動きをやめて見つからないように馬鹿にされないように取り繕って必死で最期の時を待つしか出来なくなる。そこに堕ちそうになる。

非定型の方が定型よりもパソコンに強い傾向があるらしい

たぶん、パソコンに対して「事細かに挙動を指定しなければならない」ということが感覚として理解しやすいからなのではないかと思う。

 

非定型が「細かく指示をされなければわからない」「ただし、きちんと細かく指示をされれば定型の人よりも良く動くことも多々ある」という部分、非定型が必要とする指示はちょっとしたプログラミングに近いものがあると常々思っていた。

 

プログラムを組んでもらえさえすれば、プログラムに従って疑似的にコミュニケーションの真似だって出来る。

ただ、コミュニケーションというのはかなり膨大なデータを要するものなので、全ての状況に対応することは不可能だ。

SIRIだって、時には「意味がわかりません」って言うだろう。

表情筋は動きます。

発達障害の場合、表情に乏しいことがあるそうです。

私の場合、表情筋は動きます。

 

ただ、小学生の頃は無表情だった記憶があるんです。

 

小学校の時に友人驚異のゼロのまま卒業を迎えた私は寂しく不便で、どうすれば交友が出来るのか、と考えた結果、まず、わたしは他者を拒絶しているように見えるのでは、と分析し、交友を受け入れたいと思っていることを表現するために、笑顔を心掛けるようにしよう、と誓い、そこから練習をしたように思います。

 

また、しんどい時にわかってもらえないことについても、しんどいと口で伝えられない分を表情で補おう、と、表情筋を鍛えたような気がします。

 

だからなのか、基本的な表情が笑顔。表情筋を使うことは大切だと思っているので、これは良いことだと思います。

 

思いますが、なんというか、これも「笑顔」を設定しているから笑顔なのであって、笑顔という無表情なのかもしれないなあ、なんて思ったりする。

発達障害ですがフィクションの物語なんかは好きです。

たぶん、ああいうのって、大体その人の思考の中身について「答え」を提示してくれるから安心するし、圧倒的に足りない人との関わりを疑似的に体験することが出来るし、自分に対して何かを求められることがないから安全だからだと思います。

 

ただそこに存在しているだけで、ぼーっと立っていても、話しかけても、話を聞こうとしても、あらゆる挙動に不審や否定の目を向けられるプレッシャー。

それを感じることなく、主人公の、モノローグなどではっきりと明示された感情に焦点を絞って感情移入するだけで、他者との交流を僅かにしても疑似的に補給することが出来る。

 

病院に行った時に、診断の為のアンケートで「小説等は苦手か」という項目があったんですよね。あと、「登場人物の行動の理由がわからないことがあるか」という項目もありました。

 

つまり、登場人物の行動の理由や感情が明示されていないからストレスになるのではないか、という意味合いだったようですが。

 

行動理由がわからないことがあるかどうか、ということに関しては、そもそもいちいち登場人物の言動について全て把握しながら見ていることってあるのだろうか、いや、そういう質問なのかこれは、どうなんだろう、と大変迷いながら回答した覚えがあります。

 

そして、フィクションの物語の人物たちは、ある程度の行動原理に基づいて動いている。この人はこういう役割、この人はこういう役割、そしてここはこう動けば盛り上がる、という筋が通されている。

 

非常に残念なことに、ナチュラルな交流スキルを持たないわたしは、時々、そのような視点で行動をしてしまい、現実上でシナリオを組み立て演じようとしてしまい、最後には筋書をめちゃくちゃに潰されてパニックに陥ってしまった過去がある。